バトル・ニュース

2011/06/15


手が届かないところまで


 去る6月13日は三沢光晴さんの三回忌だった。
 筆者はいまさらながらプロレスが大好きだ。運良くうまその大好きなプロレスの仕事をさせてもらっている。まぁ仕事をしていれば、楽しいことも嫌なことも山ほどある。

 そして辛いのは、やはり訃報だ。筆者が携帯サイト(バトル・ニュースの前身であるバトル三昧)の記者になって、ほぼ最初の取材が“破壊王”橋本真也さんの訃報会見の取材と葬儀の取材だった。
 ご多分に漏れず新日本プロレスの東京ドーム大会やG1クライマックスなどを、欠かさず会場に観に行っていた筆者にとって、橋本選手は平成新日本の強さの象徴であり、新日本プロレス最後の切り札だった。

 さらに編集者になってから、運良く武藤敬司と蝶野正洋にはインタビューする機会があり、あと橋本選手と仕事をする機会があったら、個人的には闘魂三銃士コンプリートだったのだ。そして、実は橋本選手が亡くなる2005年頃、筆者にはある出版社から「橋本真也の自伝を作るという企画があるんだけど」という依頼があった。
 つまり、もう三銃士コンプリートは目前だったのだが、突如橋本さんは亡くなってしまった。自伝もまだ企画段階だったため、一切執筆などはしておらず、当然その後出版されることはなかった(何でも橋本選手の前妻が近々本を出すらしいが……)。

 そんなこともあって、何だかもうよく分からないまま橋本選手の葬儀などを取材したのをよく覚えているが、逆に三沢選手には記者としても編集者としても、まったくと言っていいほど縁はなかった。
 いまでもそうだが、プロレスリング・ノアが基本的に携帯サイトの取材を許可していないこともあり、ノアの会場に取材に行けないという部分も大きい。

 だが、それだけにノア、とくに三沢選手に関しては、1プロレスファンとして純粋に見てきた思いが強い。
 記憶にあるのは二代目タイガーマスクの時代からで、決起軍を結成した際にはイベントに参加したこともあった。タイガーのマスクを脱いで素顔の三沢光晴になってからは、ジャンボ鶴田戦、スタン・ハンセン戦、川田利明戦など数々の名勝負を見ていた。

 子供の頃から新日本も全日本も見てきた筆者だが、どっち派かといえば当時は長州力のファンだったので、長州が新日本にUターンしてからは新日本派だった。だから長州らが抜け、その後天龍らも抜けた全日本を、三沢選手たち超世代軍が決起して支えた一連の流れは追っていたし、会場にも観に行ったが、覚えている試合やエピソード、会場に足を運んだ回数は新日本のほうが多い。

 そんな新日本派の筆者だが、これは恐らくこの先も絶対覆せないだろうなと思っていることがある。プロレスには名勝負、楽しい試合、印象深い試合、面白かった試合、感情を揺さぶられた試合、いろいろあると思うが、プロレスの試合として行き着くところまで行ってしまったなと思うのが、三沢vs.小橋建太戦だ。
 三沢vs.小橋戦は完全にプロレスの限界点に達していた。アレ以上はやってはダメだというところまで来ていたと思う。

 飯伏幸太の飛び技や、ドラゴンゲート勢のスピード、大日本勢のデスマッチなど、まだまだプロレスは進化していくと思うし、三沢vs.小橋以上に「凄い試合」というのも出てくる(or出てきている)とは思う。
 だが、少なくとも三沢vs.小橋と“同じ方向”でプロレスをエスカレートさせてはいけない。あれは当時の三沢選手と小橋選手にしか出来ないことであり、2人が文字通り身を削って作り上げた最高作品なのだ。

 だから筆者にとって三沢選手という存在は、記者としても、新日本派のプロレスファンとしても手が届かなかったというか、偉人のような存在である。力道山、ルー・テーズ、カール・ゴッチなど、プロレス界には様々な偉人がいるが、筆者にとってリアルタイムで見てきた偉人が三沢選手なのだ。